NPO法人麻生里山センター 海老澤 秀夫さん

「他人(ひと)の人生の話を聞くのって面白いよね~」NPO法人麻生里山センター 海老澤 秀夫さんへのインタビューは、そんなセリフから始まった。
「二十代の頃、とあるイギリス人ジャーナリストが、米国の小さな街で100人ぐらいの人にインタビューした内容をまとめたという本を読んだ時に思ったんだけど。
そういうインタビューなら、自分にもできると思ってやってみたんだけど、それができなくってさ。それが挫折の始まり」

 少しはにかんで、海老澤さんは一杯を傾けた。
 数時間前に火を入れた炭窯の煙突からは、もうもうと煙が噴き出している。今回は、前回と違って窯の本体のあちこちから煙は噴き出していない。
 海老澤さん。センター長という肩書きだが、「森林公園くつきの森」の管理人というほうがしっくり来る方のほうがきっと多いだろう。飄々としながらも、知的で親しみやすそうな風貌。森林の動植物については豊富な知見があって、ちょっぴりお茶目なキャラクター。きっとファンは多そうだ。語り口があまり関西人っぽくないとは思っていたが、それはその通りで、1953年、茨城県水戸市の生まれである。18歳の時に、林業を勉強するべく大学進学に合わせて京都に来た時から、今までの物語がすべてつながっている。

「関西に、京都に来た時の印象は?」

「歴史が豊かなところだと思ったね~」と海老澤さん。「友禅の着物を運ぶアルバイトをしてたんだけど、そこで工房の人から『水戸? どこや』と箸にもかけられない感じで言われた時はショックだったな~。あと、大阪の河内弁ってのを初めて聞いた時もショックだった。怖かったけど、若かったからか、関東から来た身だったからか、面白かったね。そう思えたのは良かった」もともと、道が、特に田畑のあぜ道が好きだったという海老澤さんは、大学では「あぜ道研究会」を自分で立ち上げて、滋賀県に来てあちこちのあぜ道を歩き回っていたそうで、その時の思いは今の彼の中にも脈々と引き継がれている。「世界中のあぜ道を歩くことを目指していたんだけどね」

 そんな海老澤さんが、朽木の山に初めて出会ったのは、1973年、二十歳の頃。当時京都にあった「北山クラブ」という山歩きのグループに加入して、京都市の北に広がる山々をくまなく歩くようになった頃のことだそうだ。ここで素朴な疑問が。
「朽木って、京都の"北山"なんですか?」
「北山に含まれてたね~」
 海老澤さんは、そこで、朽木エリアを含む京都の北の自然豊かな山々だけでなく、奥さんともそこで初めて出会ったそうだ。

「大学に、朽木に開設されるという「朝日の森」の管理人の求人が来て、教授にお前ここへ行けって勧められたから…」と海老澤さんは笑った。1978年のことだった。
 朝日の森とは、朝日新聞社が創立100周年事業として1979年に滋賀県朽木村(現在の高島市朽木)に開いた"森林環境基地"のこと。管理人の求人は朝日新聞社から出ていた。そこには当時の日本を代表するような研究者たちが関わっていて、かなりアカデミックな雰囲気があったという。「面接の時に、熱意を持っていろいろ語ってたんだけど、話がかみ合わなくてショックだったなあ」と言いつつも、海老澤さんは朝日新聞社に「朝日の森」の管理人としてめでたく採用された。以来、この森がずっと仕事場だ。「当時は、学生運動の名残がいっぱいあった時代で、卒業した実感がなくて、気が付いたらここに来ていたという感じかな」

 そうして、朝日の森が始まったと同時に、海老澤さんの森の管理人としてのキャリアも幕が上がった。敷地内にはさまざまな木々を植えた。ユリノキ広場にあるハンカチの木とか、幾種類ものカエデの木とか。いろいろな人たちが関わって、新しい森の風景を作ろうと頑張っていた。「まぁ、実現したのは、計画したうちの10%ぐらいかな。なかなか思うようには行かなかったよ」
 地元の方からはさまざまな技術を学んだ。森林の中に道を開いたり。橋や階段を作ったり。小枝を切っていわゆる「柴(しば)」を作ったり。お年寄りの手さばきの鮮やかさには目を見張り、「習う」ことの大切さを学んだ。柴づくりは今でも得意で、ワークショップをしても良いくらいだという。
 そして、同世代の連中は良い友人になった。朽木村から京都まで飲みに出かけていたそうだ。どうやって行って帰っていたんだろう? そんな仲だった彼らとは、今もNPOの仲間として続いている。彼らと作った大きな桜の木から作ったテーブルは、今も家で大切に使っている。
  時は地方から都市部への人口移動が進んでいた1980年代になっていたが、地域に同世代はまだ多かったそうだ。みんな意欲的で、ユリノキ広場にやぐらを立てて地域の盆踊りを復活させたりもした。ところが、そういう動きは、地域の上の世代からは警戒されることもあったようだ。

「でも、自分たちが当時の彼らの世代になって、その時の彼らの気持ちが分かるようになったよ」と海老澤さん。「同世代だけで盛り上がっていると、いずれ壁にぶつかってしまう。かと言って、歳下の世代のやろうとすることは、異質なものとして感じてしまうことがあるんだ」 NPO法人麻生里山センターのスタッフの男性陣は自分たちの世代しか居ない。海老澤さんに「後輩」はできなかった。が、女性陣には若いスタッフが入ってきてくれている。今は、次の世代に自分たちが育んできた森をどう引き継いでいくか、日々それを考えているそうだ。

 そんな海老澤さんの歩んできた物語は、若い頃から好きだった「道」をキーワードに、昔も今も、そしておそらくこれからもずっと続いていく。「今の仕事はね、森へアクセスする道を確保することだと思っているんですよ」
 海老澤さんによると、道を取り巻く風景はずいぶん変わってしまったらしい。確かに朽木地域では国道や県道など車やトラックが行きかう道は劇的に改良されて変わったと言えるが、あぜ道や山林の中の道から見る風景も相当変わっているそうだ。「たかしまの森へ行こう!プロジェクト」には、そうした時代や社会状況の変容が進む中、たかしまの森への道、たかしまの森の中の道を開くという思いで向き合っていただいているとのこと。なんと力強いお言葉だ。私たちのプロジェクトを、ぜひ有効に活用して、自分たちの想いを次世代につなげていってほしいと願って止まない。
 で、ここでふと気が付いたのだが、「朝日の森」は、2003年に朝日新聞社の手を離れ、地元の滋賀県高島郡朽木村の管理に移管されている。海老澤さんは仕事場を変えずに雇用主を変えたわけだ。そのいきさつについて突っ込むのをすっかり忘れていた。
「フフフ、知りたい?」と海老澤さんはニヤリと笑った。「いろいろなことがあってねぇ…」
 つのる話がたくさんありそうなので、そこは次回のお楽しみ、ということで。